麦木晩田イメージ

妻木晩田遺跡は、西伯郡大山町と淀江町にまたがる。弥生時代の中期末から古墳時代まで継続した、総面積152ヘクタールの大規模な遺跡です。
この遺跡は7地区からなり、各地区にはそれぞれ特色があります。居住区域とされるのは「松尾頭地区」「妻木山地区」「妻木新山地区」、首長墓区域は、大・中・小のさまざまな四隅突出型墳丘墓が出土して注目された「洞ノ原地区」「仙谷地区」「松尾頭地区」、環壕区域である「洞ノ原地区」は丘陵先端部にあります。調査によって確認された遺構の総数は、縄文時代の落とし穴712、弥生時代各期の竪穴住居跡384棟、同じく掘立柱建物跡502棟、貯蔵穴141、弥生時代後期の墳丘墓32基、4世紀〜7世紀の古墳32基です。

全体図イメージ

これらは、弥生時代後期を中心に造られ、中期まで丘陵下に居を構えていた弥生人がまとまって丘陵上に「クニ」ともいえる大規模な集落を形成したのです。ちなみに、同じ弥生時代の大集落「吉野ヶ里遺跡」(佐賀県所在)と比べると、面積は約1.3倍で、国内最大規模の弥生遺跡です。

さらに、まるで「都市計画」のように、「丘陵墓」「首長の居住区域」「防護施設(環壕)」などの各区域がそれぞれの役割をもち、かつての有機的につながって一つの拠点集落(クニ)を形成していました。この標高100メートル前後の高地に、弥生時代後期の約300年間にわたって、拠点集落(クニ)が存続していたことは大変重要で、山陰のこの時期の歴史、ひいては全国的な社会のありかたを知る上で貴重な存在であるといえます。また、この遺跡からは、各種土器、石包丁、石斧、石錘などの石器、鉄鏃(てつやじり)、鉄斧、ヤリガンナ、鉄鋤(てつすき)、鍬(くわ)の刃、紡績車などの約二百点の鉄器が出土し、とくに鉄器が大量に出土している点では、同じ弥生時代の「青谷上寺地遺跡」や島根県の「神庭荒神谷遺跡」、「加茂岩倉遺跡」の出土品とともに多くの注目を集めています。

妻木晩田遺跡で出土した石器

石器1 石器2 石器3 石器4

妻木晩田遺跡で出土した鉄器

鉄器2 鉄器1

妻木晩田遺跡で出土した土器

土器1 土器2 土器3 土器4
土器5 土器6 土器7 土器8

さて、今回この妻木晩田遺跡を紹介するにあたって「真実の弥生」というタイトルをつけたのですが、実はこれらの遺跡が日本の考古学のこれまでの常識を覆してしまったからなのです。これまで、出雲、因幡地方には弥生時代以前に大きな勢力はなく、神話で語られるような言い伝えなどは、日本書紀編纂のとき創作されたものであると考えられていました。ところが、これらの遺跡から大量に鉄器が発見されたことで、近畿地方で鉄器が流通し始める以前に山陰地方で既に鉄器が大量に流通していたという事実が証明されてしまったのです。これは、かつて大和朝廷建国以前に山陰地方に巨大な勢力が存在していたのではないかということを意味し、邪馬台国から大和朝廷への勢力の移り変わりに大きく係わってくることなのです。邪馬台国は北九州に存在したという北九州説と畿内に存在して大和朝廷になったという畿内説が有力(?)とされていますが、どちらもその根拠とするものは魏志倭人伝から由来しており、どちらも推測の域を超えられないのが実情です。これは、魏志倭人伝に記された邪馬台国の場所が北九州から迷走してしまう為なのですが、邪馬台国から大和朝廷に至るまでの歴史的資料が少ないことも原因しています。「じゃあ、鉄器が発見された山陰地方に邪馬台国があったかも知れないということなの?」と思われる方もおられるかも知れませんが、歴史というのはそう単純にはいかないようです。ただ、解ってきたことは、鉄器が北九州から出雲・伯耆・因幡地方をの巨大な勢力を経て畿内地方に伝わっていったということ。そしてそのことにより邪馬台国畿内説が非常に苦しくなったということです。確かに当時鉄を持たない畿内地方に日本を束ねる程の勢力があったとは考えにくいですね。詳しくはまたの機会に説明したいところですが、この妻木晩田遺跡には、いままで語られていなかった真実の弥生の姿があることは間違いありません。
この遺跡周辺は、鳥取県のリゾート開発計画の中でゴルフ場建設の対象地に選ばれていました。開発に先立つ発掘調査によって大規模な遺跡であることが判明し、市民を巻き込んだ保存運動が起こり、遺跡の保存か開発かで全国的な注目を浴びた結果、最終的に保存が決まり平成11年(1999年)に国の史跡に指定されました。 現在、遺跡には展示室や体験学習室、広場、復元建物(住居、倉庫)などが整備され観光地としても賑わっています。

 

妻木晩田遺跡アクセスマップ

麦木晩田MAP

国道9号線から大山町のローソンを左に、妻木晩田遺跡の看板に従い進むと妻木晩田遺跡のシンボルの2つ並んだ高床式倉庫が見えてくる。 写真下の手前に見える丘が妻木晩田遺跡で、丘の上に小さく見えるのが高床式倉庫です。後ろには雪を被った大山の姿が見えます。

風景

「おぉ、あれだ!」と期待に胸を躍らせつつ、道なりに坂を上りと展示施設のある洞ノ原東丘陵に到着。一見すると大きな公園のような印象です。以前テレビで紹介されていたときは、赤土の野原といった感じの風景だったのでイメージの違いに少々驚くが、ついにやって来ました麦木晩田遺跡!実は、鳥取の妻木晩田遺跡はすごいものだということが判明してから、その存在は気になってはいたものの、なかなか来る機会がなかったのです。ちなみにこれほどの遺跡にもかかわらず、鳥取での認知度は低く、若年層はほとんど知らないというか関心がないというのが実情。教科書なんかには登場する機会があまりないのでしょうか…。私個人的には、三徳山よりもこちらを世界遺産に推したいくらいなんですけどね。ともあれ、洞ノ原地区から見学してみます。

遺跡の価値もさることながら、まず景色に感動。この日の快晴もあって、青い空と緑の芝生はとても美しく、さわやかな風がとても気持ちよい。しばらく順路に沿って歩くと遠くに竪穴式住居が見えて来る。ここの竪穴式住居は、かなり景色に溶け込んでいてなかなかの出来。まるで本物みたい。本物見たことないけど…。

住居エリアから、墳墓エリアへ。四隅突出型墳丘墓を発見!これがうわさに聞く例の奴ですか…っとしばし見学(四隅突出型墳丘墓については予備知識にて解説)。遺跡、神社、神話マニアの私としては死んだら墓は四隅突出型墳丘墓にしようか…などと考えてみる。もし何千年後とかに発見されたら面白いだろう。ひょっとすると古代の弥生人もそんなことを考えながらお墓を造ったのかも知れません。

洞ノ原東丘陵から洞ノ原西丘陵へは下り坂になっていて、ここの景色がまたすばらしい。洞ノ原西丘陵の高床式倉庫、その向こうには、米子市と弓ヶ浜半島、そして日本海が一望できる。どんなにいいカメラで写真を撮っても、もこのすばらしい景色を完璧に伝えることはできません。ぜひ一度はご覧ください。

洞ノ原西丘陵には、妻木晩田遺跡のシンボルの高床式倉庫、竪穴式住居、環濠があり、環濠は一部復元されて当時の様子を見ることができます。

この環濠は造られてから後、ごみ捨て場などになり埋まってしまったそうです。弥生人もゴミに苦労していたのか、不法投棄する輩がいたのか、想像すると面白いですねぇ…。

洞ノ原イメージさて、来た道を引き返すんですが、上りはかなり急でまだ整備中ということもあり、かなり歩きにくい。登りきったら汗が出ました。

洞ノ原地区を出て展示室から奥手に妻木山地区へ。道は砂利道に変わり、テレビで見た記憶のある赤土の一帯に到着。この辺りが妻木山地区。発掘作業にとりかかろうかというおばさんに、「この辺、観てももいいんですか?」と聞くと、立ち入り禁止の看板のない所ならよいとのこと。この辺りは住居跡が密集していて遺跡だらけといった様子。遺跡の発掘という慎重な作業だけに相当の手間と時間がかかるのだろう。ほとんど整備されている場所はなく、見るからに発掘途中。こういうのが観れるのも今のうちだけかも知れないと思うと、今日来れたことがとても嬉しく感じられます。

妻木山地区の北側はほとんど立ち入る事ができない状態だったので、南側の丘の方へ。階段を登り、南側へ。ここには白い覆屋があり、3棟の竪穴式住居が発掘当時のまま露出展示されています。説明書きもあって面白い試みなんですが、もう少し近づいて観れたらいいのにと思ってしまったのは私だけでしょうか。

妻木山地区東丘陵覆屋を出て周りを見渡すと、ちょっとびっくり…。砂利道に沿って発掘前の住居跡をマーキングしたと思われる砂袋が延々と続いています。この遺跡どこまで続いているんでしょうか…?でかい、とにかくでかい!

近隣の風景端まで歩くのをあきらめ、麦木晩田遺跡の近隣の似たような丘陵地を片っ端から掘り返したら、もっといろいろ見つかったりするのだろうか?などと考えながら展示室へ戻りました。

 

○予備知識 四隅突出型墳丘墓○

四隅突出型墳丘墓四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期の後半(約2100年前)に、中国地方一の大河、江ノ川をさかのぼった中国山地の山あいで誕生しました。上から見た形が四角形で、その四隅が舌のように突き出ているのでこの名前がつきました。最初は、規模も小さく突出ぶもあまり目立たない形でした。しかし、弥生時代後期(約2000年前)になると、日野川を下り、妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墳を端緒にして伯耆地方を中心に一気に分布を広げます。規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していきました。弥生時代後期の後半(約1900年前)になると分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を北陸地方などにも広げていきました。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまうのです。
このことから、四隅突出型墳丘墓は、前方後円墳に象徴される古墳時代の幕開けを前に、山陰地方や北陸地方などで地域の有力首長の墓として築かれたと考えられています。出雲の王墓、西谷3号墳では、地元の土器とともに吉備(今の岡山県と広島県東部)や北近畿(兵庫県と京都府の北部)などの土器も多量に供えられ、中国の歴史書に「倭国大乱」と記されたこの時期、地域間の交渉が盛んに行われていたことも垣間見えてきました。
これまでに可能性のあるものを含めると全国で約90基の四隅突出型墳丘墓が見つかっています。

あとがき

弥生時代の遺跡では日本でも有数と言われる妻木晩田遺跡。おそらく規模、数とも日本一でしょう。こんな凄いものが鳥取にあるとは…。いやぁ、鳥取県民で良かった。これは全国に誇れる大変貴重な遺跡です。しかも、今回は洞ノ原地区と麦木山地区にしか立ち寄れませんでしたが、麦木晩田遺跡には他に仙谷地区、麦木新山地区、松尾頭地区、松尾城地区があります。今回ご紹介したものは妻木晩田遺跡のほんの一部に過ぎず、これからの発掘整備が待たれます。ひょっとしたら新たな発見があるかも知れません。そう考えると鳥取の山や丘ってやたらと古墳や遺跡が出るけど、例えば自分の家の庭なんかでも適当に掘ればとりあえず何か出るんじゃないかなぁ。それにしてもこの立派な遺跡、もとはゴルフ場の予定地で保存か開発かで揉めたらしいが、揉めること自体が不思議でならないんですけどねぇ…。みなさんも週末の休日にでも、お弁当持って遊びに出かけれみてください。弥生時代の景色の中で食べるお弁当は格別かも知れません。

 

THANK'S

今回の記事については鳥取県文化観光辞典を参考資料として使用させていただいております。

DREAMER編集部

 

妻木晩田遺跡 PHOTO GALLARY

今回、妻木晩田遺跡を取材してなかなか良い写真が撮れました。一部公開いたしますのでデスクトップの背景にでもお使いください。

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