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鳥取にはご存知のとおり、自然の景観を生かした公園が非常にたくさんあります。特に鳥取市のシンボル久松山の近辺は地理的にも歴史的にも馴染みの深い名所が点在しています。鳥取市の小中学校に通っていた方は、遠足などで訪れたこともあると思うのですが、いかんせん子供時分のことですからそれほど自然にも歴史にも興味ありませんし、大人になったころにはもう記憶もあいまいです。しかし、過去に行ったことがある場所ほど、大人になると知ってるつもりであまり興味を抱かず、その本当の姿を忘れてしまうものです。そこで今回は、地元の馴染みの名所をしっかりとそしてたっぷりと確認して、その魅力を堪能しましょう。

主な目的地

@樗谷公園・樗谷神社

A太閤ヶ平

B観音院庭園

C興禅寺庭園

D宝隆院庭園

E久松山西坂


おうちだにこうえん・おうちだにじんじゃ

○樗谷公園・樗谷神社○

樗谷公園は、樗谷神社の参道や境内を含めその周辺を公園にしたもので、園内には池、林、滝、川などがあり、鹿や兎、孔雀が飼育されいます。休日にはジョギングやウォーキング、散策をする人たちの憩いの場として市民大勢に賑わっています。鳥取市内の公園でも特に利用者の多い公園と言えるでしょう。

公園内の川はホタルの生息地としても有名で近年保護活動にも力を入れてます。また、公園奥の池では白鳥や水鳥、錦鯉の遊泳がすばらしい景色と相まって美しい景観を魅せています。

鳥取市民には、樗谷公園の中の樗谷神社といった印象でしょうか、神社より公園の印象が強いように思われます。ずいぶん昔のまだ子供時分に来たとき、巨大なムカデやホタル、今は無くなってしまった(?)地下壕(?)とその中のコウモリ、サクラ吹雪、山の上の展望台など、様々なものを強烈な印象で覚えています。そんなにしょっちゅう来ていた訳ではないんですが…。公園は鳥取市街から程近くにあり、手軽に子供が自然の中で遊ぶには、申し分のない公園のように思います。

樗谷神社のことを古くは因幡東照宮といい、鳥取池田藩の初代光仲が藩府に願い出て東照宮から分霊を勧請したものであるということです。明治七年、谷の名の王子谷にもとづいて樗谷神社と改称しました。参道から明神造りの鳥居をくぐり左に神門、正面に石畳が広がり、石畳を進み随神門をくぐると両脇に藩の重臣達が寄進した石燈篭が十基づつ置かれ石段の先に拝殿が見えて来ます。拝殿、唐門、本殿は昭和二十七年、国の重要文化財に指定されており、江戸時代の神社建築として屈指といえます。現在の建物は鳥取震災などによる破損が著しく昭和三十年に修復されました。また、樗谷神社は、麒麟獅子舞発祥の地とされ、その起源は鳥取藩初代藩主池田光仲公が慶安五年(1652年)に因幡東照宮に奉納したという説があります。現在、樗谷神社の祭礼は行われていませんが、大和佐美命神社、岩坪神社、宇部神社などが、本家樗谷の獅子舞を伝えていると考えられています。

神社2 神社4
神社5

昭和30年に改修されたという樗谷神社ですが、現在再びの改修時期が来ているように思われます。拝殿、本殿の老朽化は激しく、苔生した屋根などは既に朽ちているといっや印象です。鳥取市が誇る神社なのですから、こんなままだと、麒麟獅子も泣いているかも知れません。派手な神々しさは無くとも、厳かで立派な神社であって欲しいものです。


たいこうがなる

○太閤ヶ平○

樗谷公園から奥の登山道を3.5キロほど先に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が鳥取城を攻めた際に陣を構えた太閤ヶ平(たいこうがなる)があります。現在は謀携帯電話会社の中継施設がありその詳細を知ることはできませんが、現在行われている鳥取城周辺整備の公共事業に期待しましょう。もしかすると何らかの整備が行われるかも…。

太閤ヶ平までの道中、見晴らし峠からの景色(写真上左右)。写真上左の山中に見える某携帯電話会社の鉄塔が目的地の太閤ヶ平近辺です。太閤ヶ平から見た鳥取市街(写真下)。

この太閤ヶ平周辺には多くの野鳥が生息していて、樗谷公園の大宮池から太閤ヶ平まで歩くと、美しい景色と一緒に様々な野鳥の鳴き声を楽しむことができます。道はアスファルトで舗装されており、勾配もそれほど急ではないので、ウォーキングのコースとして最適です。毎日、特に午前中にはたくさんの人が歩いていて、1日に200〜300人くらいは歩いているかも知れません。季節によっては桜や紅葉を楽しむこともできるので、楽しみながら運動できるのではないでしょうか。太閤ヶ平まではいくつかの遊歩道がありますので、興味があれば歩いてみるのもよいでしょう。


かんのんいんていえん

○観音院庭園○観音院イメージ

江戸時代を代表する池泉鑑賞式の庭園です。植込みや石組みは最小限に抑えられ庭全体の簡素な造りは、武家書院に多い織部流の作庭が感じられます。書院からの眺めはすばらしくここで記すより自身の眼で見て感じていただくのがよいだろう。庭園は昭和十二年に国の名勝指定を受けており、池の右手には一基のキリシタン灯篭が置かれている。灯篭は県の指定文化財である。

書院イメージ
書院から眺める庭は遠近感と明暗が相まって、ダイナミックなその魅力を一層引き立てる。
抹茶イメージ キリシタン灯篭イメージ
美しい庭を眺めながらおいしいお茶を頂く。まさに至福の一時です。
観音院のキリシタン灯篭。キリスト教徒は当時このような灯籠を信仰対象にしていた。

この庭園はあれこれと書くより、その眼で見てみられるのがよいでしょう。入園は600円と少し高めですが、庭の維持費と鑑賞時に出る抹茶とお菓子代と考えれば高くは無いでしょう。茶道でもしてない限りめったにこういう機会も無いので、書院の奥で景色を楽しみながらの一服には大満足でした。庭園の築山、池、その中に浮かぶ島など、凝縮されたスケール感と景色は四季折々に訪れたいと思わせる美しいものです。訪れたとき私以外に、二組のお客さんがおられました。写真に写っているのは中国の方で、もう一組は金髪の外国人でした。こういうところを訪れると、日本人の特に若い人はほとんど見かけません。う〜ん、なんだかなぁ…。


こうぜんじていえん

○興禅寺庭園○書院イメージ

書院の庭園が作られたのは江戸前期で所々に室町時代の作風がよく生かされており、典型的な書院庭園の名園です。また、庭の隅にはキリシタン灯籠、裏山には渡辺数馬、臼井本覚の墓、山門には尾崎放哉の句碑がある。

渡辺数馬 臼井本覚 尾崎放哉
渡辺数馬の墓
臼井本覚の墓
尾崎放哉の句碑
庭園1イメージ 庭園2イメージ

まず目に入るのは前庭一面を覆うスギゴケ。そして池を覆う蓮の葉、小橋。観音院より規模こそ小さいが、凝縮された景色に深さと味わいがある。全体は京風の庭園で、ここもあまり多くを申し上げるより、実際に眼で観て感じられるのがよいでしょう。料金は100円となっていますが、庭に出ることが出来ないので写真撮影をされない方には少々物足りないりないかも知れません。個人的には好みの庭ですが、書院から眺めると縁側の戸が取り払うことが出来ないサッシで、これがかなり残念でした。

○予備知識 キリシタン灯籠(きりしたんとうろう)○

キリシタン灯籠は、戦国時代の末から江戸時代のキリシタン弾圧が厳しかった時代に、隠れキリシタンたちが、偽政者の眼を逃れ、密かに信仰の対象物として礼拝したもので、古田織部正重勝らが考案したことから織部灯籠とも呼ばれる。また、織部重勝のつくった茶器・織物には南蛮模様な十字架をあしらったものが多く残されている。あまり知られてはいないのだが当時、鳥取にも熱狂的なキリスト教信者が数多くいたことがこれらから伺える。大正時代末、キリシタン研究が盛んになり、一般にキリシタン灯籠と呼ばれるようになった。

キリシタン灯籠
興禅寺のキリシタン灯籠(写真上)。鳥取市の興禅寺、観音院、一行寺、西町の松田家所蔵と、気高郡酒津東昌寺の五基は、昭和三十ニ年(1959年)県の保護文化財に指定された。

ほうりゅういんていえん

○宝隆院庭園○宝隆院イメージ

久松公園内の仁風閣裏にある庭園で鳥取市内の名園の一つである。この名園は、十一代藩主・池田慶栄の未亡人・宝隆院のために文久三年(1863年)に十二代藩主・慶徳が扇御殿とともに作った池泉回遊式の庭園である。久松山を背景に自然林を活用した渓流の岩組、滝口がなす景色は美しい。鶴を型どった池には、豪壮な亀島を浮かべ、地形の変化に富み、徳川末期の遊園の味をよく残している。

仁風閣は鳥取市民にとっては馴染みのある場所で、近くを通ることはよくあるのだが意外とその詳細は知らない。さらに、その裏にある庭園は通りがかりには見えないので、全くその存在を知らない方も多いだろう。仁風閣の緑色の芝に隣接するこの庭園は見事な和洋折衷をみせており、日本の庭園の奥深さに改めて驚かされる。亀島、滝からと観る景色はその様相が変わりまた面白い。庭園のみを観るのは無料で、季節ごとに立ち寄ってみるのもよいだろう。また、仁風閣の館内を見学されたい方は入館料150円、向かい側の鳥取県立博物館の入館料が180円と格安のお値段で楽しめるので、足を運んでみてもいかがでしょうか。

宝隆院1 宝隆院2
滝側から観た庭園。亀島を望む景色は複雑な造りを一望でき、その造園技術に驚かされる。
亀島から観た滝。見る方向によってその表情をまったく変えてしまうのも日本庭園の魅力。


きゅうしょうざんにしさか

○久松山西坂○久松山西坂イメージ

久松山は鳥取市民には馴染みの深い鳥取市のシンボル的な山ですが、戦国時代にはここに鳥取城があり、江戸時代には鳥取藩主・池田家の居城となっていました。現在は城跡一帯が久松公園となっており国の史跡に指定されています。山の標高は231メートルで山頂からは市内を一望でき、鳥取砂丘・千代川・湖山池を眼下に置くその眺めは格別です。

標高はたいしたことはないのですが、山頂まで急勾配、急斜面のこの山を登山するにはそれなりの体力と持久力が必要です。大山をマラソンに例えるなら、久松山は短距離走といったところでしょうか…。とはいうものの、年少や年中の小学生やお年寄りでもどんどん登ってしまうので不思議です。いずれにせよ、靴、水分補給、タオル、軍手等、装備・体力とも準備を怠らない方がよいでしょう。久松山には、いくつかの登山道がありますが、今回は二の丸の神社から登る本来の登山道ではなく、西坂と呼ばれている鳥取城への旧道をご案内しましょう。本来の登山道はよく整備されていてよいのですが、私などは、もう30回以上は登っているので、いささか新鮮味に欠けるのも確かです。
久松公園から久松山を正面に歩くと左右に登山道があります。右には城門、左には草の茂った道、どちらも道なりに歩けば二の丸にたどり着きますが、西坂の入り口は左の道をしばらく歩いたところにあります。西坂入口の立て札があるので容易に見つけられると思います。草木が生い茂っている夏場は、ただの藪にしか見えないかも知れませんが確かにここが登山口です。

西坂側 鳥取城城門 西坂入り口
左側の登山道から西坂へ。
本来の登山道は城門から。
西坂入り口と立て札。
西坂立て札
道1

西坂入口から入山して、「え、これ道?」と思うかも知れませんが、これが道です。季節によっては生い茂る草でまったくわからないかもしれませんが…。しばらくは戸惑いながら進みましょう。すこし進むと目印のロープがありますので安心してください。

道は山肌に沿って傾いたように延びており、歩きにくいことこの上ありません。とりあえず靴紐を締め直し奥へ…。道は険しく、ときどき見失いそうになりながら登ると、早くも息が切れ、汗もかなりかいています。しんどい…。一人で登山するときは、くれぐれも遭難に注意しましょう。低い山だからといってなめてはいけません。

あまり、登山する人がいないのか道は狭く、笹は所々私の背丈を超え、蜘蛛の巣と降り積もった落ち葉に道を阻まれながら進んで行くと、松の丸の立て札を発見。松の丸とはいうものの、ここはいったい久松山のどのへんなのだろうか?

ここまで来て気づいたのですが、この西坂、一合目、二合目といった立て札が見当たりません。したがって、今自分が山のどのくらいまで登っているのかさっぱり分かりません。景色を見ながらなんとなく真ん中くらいかなぁと思いながら進みます。

横になった樹を発見。目印のロープは樹の下をくぐれと言わんばかりです。「えーっ」とか思いながら四つん這いでくぐります。案の定、蜘蛛の巣が絡みつきました。

この辺りから斜面は更に急になり、「滑って落ちたら痛いだろうな…、骨とか折れても誰も助けに来てくれないだろうな…。」などと考えながら進みます。写真では伝わらないでしょうが、この道かなり危険です。苦しさもピークに達し、笛ヶ平の立て札を見つけ一旦休憩。道の向こうにかつての石垣の一部らしきものを眼に留めながら感慨に耽り、再び出発。

登山開始から20分ほど、だんだん空が開けてきました。山頂が近い気配がします。この辺りでますます大きな岩(城壁の一部?)も増え、暑さと苦しさも一層です。もうすぐ山頂と気を取り直し進むと鐘ヶ平の立て札。道はまだ続いています。勘違いだったのか?いや、たぶんもうすぐ…のはず…。

岩の間を縫うように延びた急斜面にさしかかる。両脇には竹が伸び、まさに山城の道といった雰囲気。秀吉の兵糧攻めもうなずける。こんなところで上方から槍で突かれたら、応戦のしようも無いだろう。第一、武器を持って登るだけでも厳しい。それどころか、鎧なんて着て登ってたら戦う気力も尽きるだろう。それはそれとして鳥取城を築城した大工はたまったものじゃなかっただろうな…。鳥取藩の藩主も…。

砦跡というのか、展望台というのか、石垣を発見!しかし現在は草が生い茂って中を見るのは難しい。蚊も多そうだし…。最近(近年?)、展望台として整備されていた形跡はあるのだが、あまり利用者がいないせいなのか、その役割を果たしてはいないようだ…。いづれにせよ、これだけ木々が茂っていては、伐採でもしないかぎり、たいした景色は望めないだろう。

脇道から藪を抜けるといきなり景色が開ける。絶景…のつもりが、鳥取市内は霞んでいました。残念!とりあえず、山頂付近であることを確信!が、ここで道が消失!ロープも砦跡で途切れている。藪に遮られてどこに道があるのか分かりません。恐る恐る藪に入ると、休憩場所のような机とベンチが…。こっちか!と進むが、目の前はますます藪。城壁らしきものがあるが、このまま進んでいいものか…?

完全に道を失ったところで断念。後戻りして砦跡まで…。ここまで来て引き返すしかないのか…。あきらめきれずに、しばらくウロウロ。もう一度、慎重に探すとなんとなく道がありそうな気配(写真左)。とりあえず入ってみると、間違いない道だ!

山頂への道(写真左)。写真で見て左手が山肌です。毎年このルートは手入れされてはいるようなのですが、登る時期によってはこのように道が草木によって覆い隠されてしまうようです。

しばらく進んだところで山頂が見えてきました。やったー、登頂バンザイ!\(^o^)/いやぁ、ハラハラドキドキの西坂登山でした。今回の登山の所要時間は約40分。道に迷ったこともあり余計に時間がかかってしまったかな…。下りは危険なので、本来のルートで帰りましょう。ちなみに今回、山頂からの写真は載せないことにしました。やっぱり、この景色は苦労して登ってみてこそでしょ?

 

○予備知識 羽柴秀吉の鳥取城攻め○

天正8年(1580)5月、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は毛利氏の勢力下にあった山名豊国の居城鳥取城の攻略に着手し、鹿野城、鬼ヶ城など主要な諸域を攻略した。これをみた鳥取城主山名豊国(やまなとよくに)は天正8年9月21日、家臣の意見を斥け、秀吉に帰属することを決めたが、家臣の中村春続、森下道誉らは毛利の将吉川元春に城将の来城を要請し、豊国を追放した。元春の命を受けた吉川経家は、加勢400を連れて海路賀露に上陸し天正9年(1581)3月18日、鳥取城に入った。この時、経家は自らの首桶を用意しており、その決死の覚悟を窺うことができる。当時城内には雑兵を含めて、4000余人が篭城したといわれている。しかし既にこの時、羽柴秀吉の策略により、因幡国の兵糧は全て高値で買い漁られており、鳥取城の城兵もその高値に釣られて、備蓄していた兵糧米を売り払っていた。

久松公園近く鳥取市武道館前にある吉川経家像(写真上)。兵糧攻めの後、見事な最後を遂げた城将を称え建立されている。日本には数々の名将がいたが、かつての戦国時代、鳥取を舞台に活躍したこれほどの武将がいたことを鳥取に暮らす者の一人として誇りに思いたい。

天正9年(1581)6月25日、姫路を出発した秀吉軍2万は、29日突如として鳥取城の東方の帝釈山(現在某携帯電話会社の鉄塔がそびえる標高241メートル、現在の本陣山)に進出し、7月12日には鳥取城を包囲し兵糧攻めを策した。秀吉は吉川経家の名将ぶりを知っており、無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、兵糧は尽き、ついには餓死者が続出し始める。城内では粟、稗から木の実、草の根、馬、犬などありとあらゆる物を食い尽くした末に、死者の肉さえも奪い合う飢餓地獄と化した。経家は4ヶ月の籠城に耐えたが、森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って自刃することを条件に城兵の助命を願い出た。羽柴秀吉は吉川経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけで良く、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した羽柴秀吉は織田信長に「経家が自害しても良いか」との確認を取り、経家の自害を許可している。そして10月24日、経家は開城し翌日城内の真教寺で自刃した。切腹の際に吉川元春に残した遺言の中で経家は、「日本二つの御弓矢の境において、切腹に及び候事、末代の名誉たるべくと存じ候」と言っている。経家の首は、やがて安土の信長の許に送られたが、かの経家の「式部少輔一人可替諸士命」との言に感じた信長はあつく禅院に葬り冥福を祈った。なお、開城後に籠城者のために粥が用意されたが、餓鬼の如くに痩せ衰えた彼等は、一気にむさぼり食いしたため、頓死するものが過半を越えたという。

後世、鳥取城の「渇(かつ)え殺(ごろ)し」といわれた攻城戦である。

あ と が き

久松山山頂に来てあらためて感動。やはり高いところは気持ちいい!それにしてもこの山、いつ登ってもしんどい…。それでも吉川経家が、池田藩の藩主が、鳥取城の兵士が、鳥取城を造った大工さんが登った(?)道を現代人の私が登った。それだけで満足です。さて、今回は鳥取城下の公園・庭園を巡ってみました。知っている場所、今回初めて知った場所、知っているつもりだった場所ございましたか?これを読んで、今週の休日の暇つぶしがてらにでもぶらっと足を運んで頂けたなら嬉しい次第です。でわでわ。。。

THANK'S

今回の記事については鳥取県文化観光辞典を参考資料として使用させていただいております。

ドリーマー編集部

 

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